河口湖ステラシアター
野沢藤司 Toji Nozawa

託された想い

スタッフの声
野沢という人間を学びたかった

ある、スタッフの声である。
大学生のころステラシアターにインターンで参加した。
情が熱くて、アットホーム。
なにより会話の上手さ、ここで働きたいというより「野沢という人間を学んでみたい」と思った。

古くからの同僚は、20年前から熱い男だったと振り返る。
この施設は野沢の人望で成り立っている、人望を一人で作り上げてきたと絶賛する。

けれど、「野沢藤司」と「河口湖ステラシアター」には人、時間、想い、夢が引き付けあい簡単に語れるものではなかった。

小さな町の大きな取り組み
心は凍り付いた

遡ること1989年、河口湖町に五感文化構想という話が持ち上がる。
人間の五感(視・聴・嗅・味・触)に訴える観光地づくりをするのだ。河口湖町長(小佐野)は目標を掲げた。
「人口が減り、財政が成り立たなくなる時期」が必ず来る、早い段階で街の魅力を造らなくてはならないのだ。

野沢は入社後に国勢調査の情報をかき集め、各都道府県のデータを加工し2010年には人口が減少するとの予測を示した。
町長から託された想いを実現させるため、無我夢中で仕事に取り組んだそうだ。
何としても、2000年代に入る前に夏以外の3シーズンも滞在できる通年型の観光地を目指さなければならない。
当初は1000人収容のホールが町民の希望だったが、将来的に人口減少になった時に運営費が足かせになる。
施設管理費を下げて、観光地における全国の唯一の野外音楽堂にと想いを巡らせる。

バブルがはじけた後、建設省で大きな補助金を出す時期があった。野外音楽堂であれば補助金が出る。
地方交付税を使いながら、後々補填されていくことで有利な事業費になるよう工夫が凝らされた。

1991年構想から4年の歳⽉をかけ、1995年に河⼝湖ステラシアターは開館を迎えた。
しかし、野外音楽堂準備室ができた1994年当時は3000⼈の⾳楽堂に不安からくる潜在的な批判があった。
野外で3000人の音楽堂を造って大丈夫なのか?数年後はどうなるんだ、不安の声が多かった。
建築工事スタッフも初めてのことが多く、まだ見えない未来に疲弊していた。

何とかしようと野沢も明るく振舞うが、横を向かれてしまうこともあり思わず足がすくんだ。

想いは共鳴し
状況は一変する

1994年6月、ある日、閉ざされた未来を押し開けたきっかけが来る。
アーティスト「玉置浩二」が野外音楽堂を建設していることを聞きつけ来てくれた。
移動中の車内の中で良い曲が出来たと話題になり、そのまま、造成中のステラシアターでその曲を歌ってくれた。
さらに、玉置浩二は疲弊している工事スタッフに
「君たちの仕事は素晴らしい、こんな場所で歌わせてもらえて感謝しているし、こんな劇場で歌ってみたい」と言って回った。

翌日から館内の状況は一変していた。
野沢が工事現場に行くと、工事スタッフが「おはようございます」と皆、笑顔で迎えてくれたのだ。
あんなに凄いアーティストが演奏し感謝してくれるなら。
工事スタッフの抱く不安は希望へと変わっていた。
さらに、地域住民にもステラシアターにはこんなアーティストが来るのかと、わが町にもと誇らしく思えた。
1995年のオープンまでには、ステラシアターに対する凍り付いた心は溶けていった。

音楽、ボランティアから
繋がった

野沢藤司、山梨県河口湖町に生まれる。
小さなころから体を動かすことが好きだった。中学ではバレーボール、高校ではラグビーに打ち込んだ。
高校時代は怪我も多く、やり切った想いはあった。
そして、都内の大学へ進学し、運動系とは違った、ボランティアの道へ足を進めた。
手話、子供たちの交流キャンプ(健常者、障害者)を通じ、お互いを分かり合うことの素晴らしさを感じた。
お互い触れ合うことがないから、お互いが分かり合う。人と人との出会いを作り、想いを創りたい。
そして、想いが志になったり、夢を描いたりということに繋がったりする。
地元に戻り、こんな活動が出来たら。そう思うようになっていったという。

また、野沢は音楽が好きだ。
中学時代は、ブリティッシュロック全盛期。デュラン・デュランのデビューアルバム「グラビアの美少女」を聴いて刺激が走った。
FMラジオからカセットテープに録音して擦り切れるまで聴いた。昼間は車の騒音があるからと夜中の遅い時間に録音していたそうだ。
ステレオが欲しく、1年間地域のアルバイトをして20万円を貯めて、友達の電気屋さんでステレオを買った。
それから、様々な年代のロック、またジャンルを変えながら知識を深めていった。
音楽は、何かを考える施策のもとになる。
探れば探るほど、そのアーティストの神髄に触れ、心の豊かさに感動する。

大学の時、あるピアノ演奏に出会い感動した。この曲だけで良いから、自分も弾けるようになりたい。
友人にご飯をおごるから教えてくれないかと頼み込んだ。運動ばかりやっていた体だからか、右手と左手が別々に動いてくれない。
月日は流れ、社会人になったある日、友人の結婚式でピアノを演奏してくれないかと依頼される。
勿論、人前で演奏したことなどなく、そこから猛練習をして、結婚式では綺麗に弾けた。
その時、町の町長が同席していて、ならばと野外音楽堂担当への道へとつながる。 

未来へと加速する想い
可動屋根の導入

1997年7月、森⼭良⼦コンサートの⽇であった。台風が接近しているが、予測では進路はそれて影響は無いように思えた。
しかし、予測が外れ音楽堂を直撃してしまったのだ。
凄まじい風と雨の中、森山さんは文句ひとつ言うどころか笑顔で公演を終えた。
どうして、台⾵が接近しているのに近くの体育館に移動しなかったのか?
終演後にお叱りを受けると思っていたが、観客に⼤変感動したと⾔われ、マイクを持ち続けた森⼭さんに感謝した。

年間1万3000人の観客動員数と順調に推移したが、町長、野沢にはもう一つやり残したことがあった。
音楽堂への屋根の設置であった。
当初の計画には勿論あったが、予算の関係などから設置が出来なかった。
ステラシアター建設当初は、住民の批判にあった。今回も批判に合うことはくくっていた。
しかし、約100⼈の会議参加者は誰一人として反対しなかったのだ。
もうすでに、ステラシアターは町民にとっての自慢の場所である。もっと早く、設置しても良かったのではないかとの意見もあった。

そして、屋根の設置が動き出す。
ご縁があったのが、横河システム建築。
横河システム建築の実績、安全性、施工、動作検証など、施工完了までを振り返ると良いところに頼んだと嬉しさが大きかった。
開けてよし閉めてよしの可動屋根が出来上がった。
そのことを自慢したくて、屋根が出来た後、すぐに町民に内覧会を開いた。
町長も含め皆の長年の想い。そして、野沢も野外音楽祭のリスクもあり、打ちのめされることも多かったが自身の未来の可能性も広がる。
屋根が出来たことにより安心して企画の幅が広がり、またシーズンの幅も広がり
なにより、雨によって演奏ができない管弦楽の演奏が出来るようになった。
コンサート、イベント、ボランティアの規模が大きくなればなるほど次の世代の人々が夢を描ける場所になっていく。
そして、この屋根の存在が大きく意味を持つという。

町長からの想い、地域住民の想い、またボランティア活動に参加して頂いている方々に、無我夢中で仕事に取り組んだ野沢の活動が実を結んだことは間違いない。
そして、これから先の未来に曇りはない。

夢を実現するために

ドイツのベルリン郊外にあるヴァルトビューネ音楽堂で、毎年6月に2万2千人規模のベルリン・フィルのサマーピクニックコンサートがあるという。
クラシックなのにお客さんはジーパン、Tシャツ、子供は肩車、サンドイッチが入ったバスケットを持ってくる。
最後はアップテンポな地元のシンボルソング「ベルリンの⾵」で締めくくる。
ホールのオープン10年後、野沢は新しいクラシックの音楽祭を実現しようとしている。

野沢は100年先まで残るもの、悔いは残せないとでも言いたいように思える。

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