取締役常務執行役員
髙柳 隆

守らなければならないこと

後継者をつくる

向き合わざるを得ないことが、いつも頭から離れなかった。
日本では類を見ない、大規模な可動建築。
周囲の人間は、「後継者をつくれ」と言うけれど、技術の伝承は簡単な代物ではないと髙柳は言う。

伊勢神宮では、技術を絶やさないため20年に一度「式年遷宮」を行う。
これは、30年では駄目。
経験した宮大工の技を、まだ現役のうちに引き継ぐためだ。

経験した者だけが持っている技術や見積の段取り
それをどうやって練習していくのか。
自分の年齢を考えても、今何とかしなければこの事業が絶えてしまうと思える。

期待していた新国立競技場が受注まで至らなかった。
何であろうと、少しでも技量を上げていかなくてはならない。
苦し紛れではあるが、自社の中で技術開発をして逆に提案できる施策を行ったり、ベストは尽くした。

しかし、実際に受注し設計して管理、現場をやりきって引き渡しを経験しない限り様々な伝承はできないのだ。

実際、図面を書いて解析をして見積をしたことは技術の蓄積になる。
大きいドームを経験したメンバーはもう数名しか残っていない。
関わった社員もいるが全体を経験してはいない。

自分が残っている間に構造的な段取り、計画を経験させないとならないのだ。
けれど、頂きは遠い、淡々と気骨を持って取り組んでいるが、現状と向き合う日々が続いた。

カイタックスポーツパーク受注

チャンス到来。「香港のカイタック」と国内の案件の話が同時期に持ち上がったのだ。
社内で協議した結果、受注確率からカイタックスポーツパークに力を注ぐ判断があった。

香港のカイタックスポーツパークを経験することで、世界中のどこの国の仕事でも通用することは間違いない。
グローバルな視点でものが見れるようになれることが重要なのだ。
そして、次世代の幹部の技術継承ができ、社員のモチベーションもあがる。
何としても受注しなくてはならない。

そして、苦労の末にカイタックスポーツパークを見事に受注しプロジェクトは始動したのだった。
香港という海外で、長い人間は1年間を超えて家族とも離れ離れ。
コロナという厳しい環境の中で、試行錯誤の日が続く。
継承だけではなく、新しいことも習得できる環境は十分にあったのだ。

最後までやり切れば、狙った目的は達成できそうだと感じている。

髙柳は、これだけ大きなスタジアムを経験することによって、
民間資本の稼働率の高い施設にも対応できると目論んでいた。

これからのスタジアム・アリーナに要求されること

技術の継承だけが全てではない。
時代が変わり、新しいやり方も取り入れなくてはならない。
昔の営業とは違う。
設計事務所やゼネコンの影響力が弱くなり、施主の目が肥えてきたのだ。
施主が出張中に見学した施設、インターネットでも情報が取れる時代、世界中の色々な施設を参考にしている。

これまでの箱物行政は稼働率を上げようという発想がない。
開閉屋根を取り付け天候に左右されずイベントが出来たとしても
Jリーグのシーズン中は、芝のコンディションを維持するために何人も足を踏み入れることができない。
イベントで使用できるのは1年間のうちシーズンオフの50日程度で
準備期間の前後を考えると数回のイベントしか開催できないのだ。
そういった実態の中で税金も潤沢にあるわけではない。

今後、苦しい箱物行政は衰退を辿ると予測する。
色々な産業が成熟している中で未成熟なものはスポーツビジネスとエンターテイメント業界だ。
髙柳は、海外と比べ日本は遅れていると指摘する。

行政ではなく、資本力のある企業が銀行からの借り入れなしでオーナーが好きな施設を建てていく時代が来る。
今は設計事務所、ゼネコンと取引をしているが、これからはそういった企業が中心的な存在となるのだ。
それに応えられる技術開発や特許を取得して、オーナーの目に留まるようにプレスリリースやホームページで掲載している。

身辺は多忙だが、未来に対する道筋も残す必要があるのだ。

経験したこと

髙柳がドームをやり始めたのは35歳の時。
石川県のこまつドームだ。
驚いたことに、日本初となる勾配可動屋根だった。
何もかもが順風満帆ではなく苦労が多く
実際工事は2年半に及んだ。
続けて38歳で天城ドーム、引き渡し後
ノエビアスタジアム神戸、豊田スタジアムを同時に受け持った。

何度も大きなものを手掛けてきた。
挑戦には試行錯誤がつきまとう、苦労してやってきた。
だから、作り上げた施設が「可愛いんだ」。
髙柳の言葉は、施設は作るというより子供が生まれてくる様であった。

施設に対する想い

そういう想いは、実際に物件をやってみなければ、本番を経験しなくては
「可愛い」とは思えないのだ。

可動建築部で、そういう経験をしていない若い世代が沢山いる。

現状、ルーチンワークになってしまっている小型物件が多い。
小型物件はある程度のベースがあるものに、施設に応じたカスタマイズを行う。
しかし、ドームなどの大型物件は全くの白紙からなのだ。
幾重にもなる検討から少しずつ最終的なことが決まっていく。
思い描くイメージの正解はどこにあるのか、膨大なエネルギーを使いながら作り込むのだ。
長い年月を苦しんで、出来上がった時の想いをみんなに味合わせてやりたい。

それに、若い世代が自分で手掛けたものではないけれど、
寄附という形で施設に関わったものは、他の施設と違う意味をもつ。
違った形でも、自分たちの施設だと誇りを持つことが重要なのだ。

最後に

カイタックスポーツパークを最後までやり抜いて
引き渡しのオープニングセレモニーでテープカット、
それに合わせて屋根が動く。
自然に湧き上がる歓声と拍手を目の当たりにして
門出を支えた黒子として仕事の楽しさを嚙み締めてもらいたい。
また、やり切った達成感を感じてほしい。

自分たちが味わってきた「良かったな」と思うことは沢山ある。
同じ経験をさせたいのだ。

今の若い世代は妙にクールな部分がある。
表には熱い部分を出したりしないという。

ある日のことだった。
6か月かけて作りあげたカイタックスポーツパークの実験施設が役目を終えて解体されたのだ。
勿体ない、名残惜しいと若い者たちが言葉をもらした。

それを目の当たりにした髙柳の表情は息子に再会したようにやさしげであった。

継承というのは技術だけではない、仕事の感動や誇り、沢山あるのだ。

髙柳がこの場を退くまで、伝えたいことは引きも切らない。

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