河口湖ステラシアターと
ステラシアターサポーターズクラブ

地域の温もり

気は抜かない
ボランティアとしての誇り

世界屈指のピアニストが演奏している。
裏方として見守り、目を細めている。
その日も、興奮と喜びと、万雷の拍手が待っていた。

ボランティアといえどタフな仕事である。
けれど、地域を盛り上げる気持ち、また仲間意識の高さ。なにより、楽しくてたまらないのだ。

今日も河口湖ステラシアターとサポーターズクラブは「賑わっていた」。

地元を離れ河口湖町へ
地域の輪に入りたかった

遡ること27年前、仕事の転勤で他県から河口湖町に住むことになったのだ。
その時は、無我夢中で仕事に取り組んだそうだ。

都会に比べれば、いささか寂しい田舎暮らし、仕事以外の交友関係もあまりなかったという。
やがて、定年退職を迎えると職場の交友関係も細くなった。
地元を離れた者の性なのか、気心の知れた仲間がいない。
どちらかといえば控えめな性格、河口湖町の輪に入るきっかけが欲しいと感じていた。

河口湖ステラシアターサポーターズクラブで
地域の温もりに触れた

河口湖町に何かできることはないか。そう思っていた。
15年前、ステラシアターサポーターズクラブの募集に目を止める。
音楽が好きで演奏もする。自分にぴったりだと思った。
「はじめは、何が何だか分からなくて。一人で参加したものですから」
慣れない作業にふと弱気になった。
けれど、周りの仲間は温かく、他県から来た者に寄り添ってくれたという。

友達も沢山できた。音楽のことも教えてもらえる。
イベントがない日でも仲間で集まり楽しんでいるそうだ。

気が付けばステラシアターのことを地元の人に伝え、関心を持ってもらいたいと思うようになっていた。
「今日はステラシアターへボランティアに行くのよ」
「面白そう、私もステラシアターに行ってみようかな」
無論、賑わってるほうが良いのだ。

住民の人達と向き合う
野沢の想い

野沢藤司(富士河口湖ステラシアターマネージャー)

驚くべきことに当時、若き25歳の野沢はこう思っていた。
この劇場は行政の直営ではあるけれど、地元の人達と一緒にやっていくプロセスを辿って行くほうが良い。
1995年4月に施設の引き渡しがあったが、その時からボランティアと一緒にやっていこうと決めていた。
同年7月の第1回目ステラシアターグランドオープニングコンサート(玉置浩二、森山良子)からボランティアをいれて開演を迎えている。

施設の引き渡しからボランティアの募集はかけていたが、地元では出来上がったばかりの野外音楽堂でどのようなことが行われるか分からないし
なおかつ文化ボランティアというイメージが付きにくかったのではないかと言う。
公募のボランティアだけではスタッフが足りず、知り合いに頭を下げて回った。
なんとかスタッフを確保したが、手探りの中、試行錯誤の日々は続く。

建設当初、ステラシアターは懸念された。
野沢は「お互いが分かり合う」気持ちを大切にしたいと想いを巡らせる。
ステラシアターがやっていること、またこの施設に託された想いが理解されれば、逆転出来るのではないか。
知らないから潜在的な不安が生まれ懸念されてしまう。
それを克服してもらうため、一つ一つ丁寧に企画を考え、またボランティアと一緒になって考える。
その過程でお互い異質なものから馴染んできて、自分たちのものの様になってくれたと話す。
やはり、同じプロセス、同じ時間を一緒に過ごすことの大切さがあったのだ。

コミュニケーションの場となって

スタッフの配置にも気を配る。
この方は教え方がうまい、優しいなど20年以上記録しているのだという。
それに従い、組み合わせや配置などを考え、最適な環境を作り出しているのだ。
自分が新しく入った時に「優しく教えられた」というのは忘れられないし、また自分も同じことをやろうという気が芽生える。
なにより、また来たいと思ってくれる。

学生の頃や仕事をしているのであれば仲間がいる。そして、結婚をして家に帰れば子供が待っていて夫もいる。
その時々の生活は、話し相手もいてコミュニケーションも良好だ。
しかし、時間の経過とともに環境は大きく変化する。
定年退職し、子供も大きくなり巣立っていく。
中にはご主人を亡くし、今は家で一人で暮らしているという方もいる。
そんな方々にとって、ステラシアターがコミュニケーションの場になれたらと思っている。

アーティストも地域密着

ステラシアターで公演を行うアーティストには、事前に地域密着だと伝えている。
だから、公演が終わるとボランティアと記念撮影をしたり、打ち上げをしたりする。
都内の公演ではまず考えられないことだ。
また、そういったことでボランティア同士の結束も高くなるという。

ボランティアも仕事である

長野県松本市で行われるサイトウキネンフェスティバルは、ボランティアの数が500人を超える。ステラシアターのおよそ10倍の規模だ。

なんでそんなにいるのか?
木之下晃(クラシック演奏家や世界の劇場の写真撮影をする国内を代表するカメラマン)に松本ボランティア協会の会長を紹介してもらった。
そこでの会話は未だに鮮明に残る。
中でも「ボランティアといっても仕事です。遅れてきた方はお帰りください」と言っていたことに驚いた。

いつもボランティアにお願いしていた野沢のやり方とは違っていた。
そこで野沢は、時間にルーズな人や規則を守れない人には案内を出さないようにした。
規則を守れない人が少し減って50人が40人にはなったが、これから新しく入ってくる人は新しい仕組みを分かっている状態だ。
そして、仕組みを十分に理解するボランティアが増え60名になり上手く回るようになっていった。

音楽祭にむけて
意識高く進んでいく

1998年、ボランティアの仕組みを発展的に組織化した。それは、将来的に音楽祭に繋げるためである。
組織化することにより町から補助金をもらって研修に行くことが出来る。
都内の公演など最先端を感じ、またスタッフの動き、バックヤードの細かな部分なども見せてもらいステラシアターの質も高めるのだ。

2000年8月に松本サイトウキネンフェスティバルの研修から戻ると、
ボランティアの目つきが変わっていた。
大きな音楽祭を目の当たりにして、自分達でも何かできることはないのかと。
同年6月にはウィーン少年合唱団のコンサートを企画し、即日完売の公演となった。

また、2001年8月には世界的な指揮者佐渡裕指揮によるPMFオーケストラコンサートの開催を踏まえて、
2001年12月に佐渡裕を訪ね「佐渡裕⾳楽プロジェクト」⾳楽祭を⽴ち上げ、
満を期して2002年8月に念願のクラシック音楽祭「富士山河口湖音楽祭」を佐渡裕監修のもとで第一回目を開催した。

住民の参加を促す仕組みとして、音楽祭実行委員会を作り、ホール、行政、吹奏楽部顧問、
住民ボランティアと音楽祭実行委員会を作り展開していった。

⼤きな⾏政は、知事(町⻑)は会⻑で後の委員は局⻑、課⻑となり名前が出る。
この仕組みではなく、実際、汗をかく⼈が良い意⾒も持っているし課題も良く分かっていることから、
野沢は実⾏委員会は現場の⼈間を委員に多く⼊れたのだった。

初めの2回の音楽祭は、まだ補助金は出なかったからステラシアター運営費で行うなど苦労は多かった。
佐渡裕もそのことは承知の上、音楽祭を協力的に進めた。言えば同じ釜の飯を食った仲である。

そういった下地があって、2007年に可動屋根が出来た。
施設は、7月から9月上旬しか稼働できなかったが4月から10月まで稼働できるようになった。
しかし、手放しでは喜べない。稼働できる期間が長くなればそれだけ公演を入れる必要があるのだ。
野沢はこうなることを予測し、事前に準備をしていた。
屋根が出来れば管弦楽ができる、オペラができる、企画の幅を広げる活動を随分前から仕込んでいた。

ステラシアターの海外からの招致が本格化していく中で、またボランティアに要求されるレベルも高くなる。
必ずボランティアは6月に東京のレセプショニストトレーナーから研修を受けている。
また、新しく来たボランティアには経験のある教え方の上手いボランティアとペアで組ませ、講習内容を共有するように工夫した。
上から下へ、まるでピラミッドの構造で経験や新しく覚えたことを伝え全体のレベルアップに成功したのだ。

一緒に歩んできた道を振り返り

野沢は、山梨県の文化賞、総務大臣から頂いたボランティアへの表彰状を指さし
誇らしげな顔で読み上げた。
受賞後、ボランティアと受賞を分かち合うため祝賀会を開催すると、
ステラシアターで公演を開いた国内、海外のアーティストからボランティアへのビデオメッセージが届いたのだった。

どんな時でも、一緒に考え、悩み、乗り越えてきた。
自分のことのように嬉しくもあり、ボランティアがいなければ、今のステラシアターはなかったと振り返る。

アーティスト、施設、ボランティアは深く結びついている。
一言で言うのであれば「皆、嬉しいのだ」。

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