TAMISUKE
YOKOGAWA

横河民輔について

建築構造学者
佐野利器 追想語録

「ただ一介の民間人でありながら、先生の如く建築界の各方面から、推され、立てられ、慕われ、仰がれた人はあるまい。
それは実に先生の先覚者的な透徹した頭脳と、大洋のように広々として奥ゆかしく、そしてやわらかな人柄によるものではあるまいか」

横河民輔について

先人を敬い、 先人に学ぶ

民輔は1864 年兵庫県に生まれました。西洋医学の医師を父に持ち、物事に科学的な根拠を求める姿勢は、幼いころから自然と培われたものと思われます。19 歳のとき民輔は上京し、工部大学校(現東京大学工学部)に入学。定員50 名に対し希望者1000 名を超える狭き門。この頃、工部大学校は明治政府が西欧の近代科学技術を取り入れるべくリーダー育成のために設けた国家的機関。まだまだ国内の移動にも難する時代です。最新技術に対する学びへの熱い思いによる上京であったと思われます。

学生時代の横河民輔大学校卒業時にまとめた卒業設計では、それまでほとんどの学生が壮大華麗な西欧建築を選んだのに対し、華美な意匠を排除し日本人の生活に即し、近代建築として耐震・耐火・採光・換気などが盛り込まれた現実的で適合性の高い建築を追求しています。民輔の国や社会の向上を思い描く姿勢をうかがうことができます。

民輔が建築家として発揮する時代には、鉄骨造の名建築を残しました。
渡米し学んだ鉄骨建築技術をベースに日本の耐震を考慮した建築が生まれます。

三井営業総本店をはじめに旧帝国劇場、三越呉服店本店など見栄えだけでなく現実に役立つ建築として建物の役割りに踏み込んで設計をしています。そして、設計事務所のスタッフを抱え大学の講義をする時代からは民輔らしい人柄・才覚についてのエピソードが多数あります。

「常に温顔を以てし、叱責痛罵の事なし」横河民輔追想録には次のことばも記されています。

「性温厚、物にこだわらず、又面子を云為しない。屁理屈などは決して申されず、如何にも応揚な紳士であり、部下に臨むにも常に温顔を以てし、叱責痛罵の事がなかった。従って部下は何れも博士を慈父の如く敬慕し、各方面の何れも人の和を得て隆昌に赴いた」
「横河先生は何もしないで黙っていて、とにかく後方から糸を引いてまとめていく」
「自分は線は引かないけれども、自分の思うように線を引かせてしまう」

叱責せずとも人を導き、事業を興せばこの者ならと思う人材に信じて任せ、大局は握りつつ小さなことに干渉せず、悠々と構えた鷹揚な性格の持ち主でした。「横河君は一介の建築の技師なんぞにさせておくのは惜しい。事業家として工業の経営に当たっておったら、その当時のえらい人々に肩を並べたであろう」と言ったのは当時の鐘紡(現 株式会社カネボウ化粧品)の武藤山治氏である。

大正14年の61歳のときに民輔は「是の如く信ず」を出版する。
それまでの人生を振り返りながら、自らの人生観、社会観など「自然(科学)」・「善(倫理)」・「美(芸術)」・「社会(政治)」・「経済」の5つの観点から書き上げている。百科事典的な情報が少ない時代、西欧諸国から学んだ情報と民輔の日本人としての価値観を融合して纏めた書籍になります。日本の開国時代から海外の近代文明を目の当たりにした当人として、新たな世代に向けて日本を早く西欧諸国に並ぶ近代国家に育て上げたいとする強い意志の形であります。

後に民輔は「社会の為に業を撰み、現在以上の向上を期すべし。自己の為に趣味を撰み、現在以上の幸福を味わふべし。」という言葉を残している。
非常に多趣味で中でも中国陶磁器の収集には力を入れており、その多くは1932年に東京国立博物館に寄贈されました。それらは「横河コレクション」と冠され、学術的にも貴重な作品が多く体系的なコレクションであると評されています。技術だけでなく美術の分野も欧米諸国にも負けないような幸福な国を造りたいという当時の強い思いが現在も東京国立博物館に所蔵されているのです。

横河民輔の世界・時代のお話はいかがだったでしょうか。
日本の近代史において遠く国と社会の将来を見据えて海外から技術を学び・日本の風土に合う鉄骨建築や事業を確立してきました。

横河ブリッジホールディングスグループの横河システム建築は、民輔の遺志を受け継ぎ「システム建築」によって、これからの日本の工場建築や物流倉庫など、日本のものづくりを支える・役立つ建築の" スタンダード工法" になることを目指しています。